Interview

Q:本作はインドシナでの衝突が激化した第二次世界大戦直後を舞台にしています。なぜ、このような歴史上の出来事を描こうとしたのですか。
A:1945年と1946年は写真や映像に撮られることも少なく、闇の部分が多くて、かなり不透明な2年間でした。 客観的な歴史的事実が存在せず、都合のいい想像の解釈だけがあったことを受け入れるとしても、非常に刺激的な時代でした。歴史の改竄に陥ることなく、公的な歴史の描写とは違った、幻想の入った事実という視点に興味があったのです。
Q:物語は1945年3月9日、日本軍によるクーデター(明号作戦)を起点にしています。
A:シャルル・ド・ゴール将軍がインドシナの奪回を願ったとき、トンキンを占領していた日本軍は激しく抵抗しました。彼らの支配力をはっきりと示すために、同じ日の同時刻に複数のフランス軍駐屯地を攻撃し、多くの兵士、女性、子供を虐殺したのです。この攻撃にもかかわらず、ド・ゴール将軍は態勢を変えず援軍を送りました。運命のいたずらで、日本軍は広島への原爆投下で被害を受けて撤退します。フランス軍は現地の統制を取り戻そうとしましたが、ベトナムの分離独立主義者がその間に自信をつけ、自分たちの国の奪回に身を投じ始めました。このような状況の中で映画は始まります。虐殺を免れた兵士である主人公ロベール・タッセンは、軍隊に再入隊し、兄の死の原因となったホー・チ・ミンが率いる軍のヴォー・ビン中尉を探し出そうとします。
Q:伝統的な戦争映画の枠に収まらない作品ですね。
A:この戦争も当初は非常に古めかしく、有機的な意味で非常に身体的なものでした。北ベトナムのジャングルはその植生のせいでさらに息苦しく感じ、過激な気候を強いています。この攻撃的な環境は生き延びようとする必要性に人々を導きますが、これらの人々はそれほどまでに死に近い場所にいたことはありませんでした。決して姿を現さない敵に生死を左右され、目に見えないベトミン(ベトナム独立同盟の兵士)への強迫観念を助長しました。この実態のない命という大前提は、ある意味、兵士の問題をさらに強調しています。戦場で私たちが目の前にしているのは、まだ生きている死者なのでしょうか。それとももうほとんど死んでいるような生存者なのでしょうか。
Q:この戦争をどのように理解しましたか。
A:当時と現在の間には世代的な隔たりがありますが、植民地の影響が長期にわたって残る国を訪れると、私たちはまだ対立者のままであるとよく感じます。 植民地化の行為は人類に対する犯罪として捉えることができるでしょうし、強制占領はそのうちのひとつです。これは1939年にドイツ軍がフランスで行った方法です。私たちのレジスタンス活動を誇りに思っていますが、戦後に引き継がれた政府は他の国に対して同じ策略を繰り返し続けてきたのです。ベトナムにおける植民地主義の被害を否定できないのは、第三共和制末期の指導者たちがこれらの民族を扱った方法がおぞましいものだからです。
Q:その一方で、本作の意図は植民地主義の告発ではなく、実存の探究にあるように思えます。監督は最初から復讐と不可能な愛を対立させながら、内的な戦いというプリズムを通して戦争を描きたいと願ったのでしょうか。
A:そのふたつは密かな方法で少しずつ編み上げられていきます。登場人物が抱える執拗さから遠ざかっていくことを望みましたが、その方向変換は同じような強度を持った別の執拗さによって引き起こされなければなりませんでした。ふたつの葛藤は、破壊的で錯綜した奈落にロベールを突き落とすのです。ここに描かれている時期は、明確に表さなければいけない歴史的な背景ではありますが、私が興味を持っているのは人間の運命なのです。愛に閉じ込められることと復讐は、衝動に突き動かされています。理性ではなく、個人的な混乱に駆られた内的な戦いにロベールは身を投じるのです。
Q:唯一、ロベールを救おうとするサントンジュという登場人物について語ってください。
A:サントンジュは単なる観察者の側に立っており、侵略勢力であるフランス軍と抵抗するインドシナ当局の両方と接しており、独立を奪回するためのベトナム人の一世紀にわたる闘いを理解しています。 サントンジュ役のジェラール・ドパルデューは、ロベールの父親代わりであり、彼を触発して問題や両義性を提示し、一種の心の安らぎを吹き込むキャラクターを演じています。ロベールがなかなか受け入れられない、観念的な解決策を提案しているのです。彼はすべての妥協を自らに禁じているように、愛と復讐を同列に置いて選ぶことを強いていますが、残念ながら選ぶことは諦めることでもあるのです。
Q:ロベールが執拗に追うヴォー・ビンは、彼にとってのカーツ大佐(『地獄の黙示録』)なのでしょうか。
A:幸いなことに違います。カーツ大佐は圧倒的なキャラクターだけに、参照から免れることは難しいですが、私の作品はどちらかと言うと、ピエール・シェンデルフェール監督の『La 317ème Section』(65)に近いでしょう。私の意見ではこのジャンルで最も重要な作品で、敵の姿をほぼ見せることなく、ありのままのミニマルな方法で戦争を扱った最初のフランス映画です。死に至るのを待つ重みを感じさせ、戦いの不在を非常に強烈な方法で視覚的に表している傑出した作品です。
Q:本作はさまざまな形で戦争の恐怖、暴力を表現しています。
A:暴力は人々を魅了します。それは私たちを共感と困惑、拒絶と不安に陥らせます。暴力を強く批判することはできますが、同時に私たちの命の強度に関わっていることも受け入れなければいけません。その魅力が抱える、煮え切らないパラドックスです。多くの文学作品の中には、痛みと恐怖が美と陶酔と通じ合う映像的な喚起が見受けられます。戦争がこれらのすべてを同時に封じ込めるとまでは言いませんが、生存本能が極限へと駆り立てられ、感情が著しく興奮させられるほど強度のある世界なのです。
Q:作品の最後には、非常に驚くべき固い決意、そして物語上驚かされる一撃がありますね。
A:復讐を描かなければならず、物語を進めるためには、これを確かめて実践する必要がありました。それにロベールが彼自身の結末にたどり着くかどうかを知ることは、もはや重要ではありませんでした。重要だったのは、彼が決断するかを知ることでした。彼が殺されたのか、殺したのかは、同じことに帰結するのです。なぜならば、ふたつの場合は共に彼をマイから引き離すので、同じ方向に向かっているのです。これは理解不可能で、受け入れることがほぼ不可能なことですが、愛を諦めることは非常に美しい決断なのです。なぜならば欲望の対象に手が届かないと同時に、それは不変のものになるからです。これはあなたが生きている限り生き続け、残酷であると同時に犠牲にもなるのです。つまり愛を維持する最良の方法は、最も愛が激しいときに諦めることなのです。
Q:主演俳優には最初からギャスパー・ウリエルを考えていたのですか。
A:ギャスパーを初めて発見したのは『ハンニバル・ライジング』でしたが、血に飢えた若き殺人者の役を演じるために、彼の演技は驚くほど効果的で、非常に信憑性があると思いました。それ以来、私たちが一緒に仕事ができる企画を見つけることを期待しながら、ギャスパーのキャリアを強い関心を持って追ってきました。彼には心を乱させる異常さが混ざり合った、天賦の才能と類いまれな正確さがあります。登場人物の肉体に強く培わられる、感情の幅広さを与えてくれる曖昧さが彼にはあるのです。演技とは神秘的なことで、登場人物から想像したことに部分的に答えると同時に、気づかなかったことも提案しなければならない。ギャスパーはこの創造的な領域を素晴らしく満たしてくれました。